敷居をくぐると、慣れ親しんだ匂いが鼻をついた、
道場でもジムでも、人が体を動かす事に使う場所に漂うあの匂いがした、
土曜日の午後、長谷部は名張に連れられて辻里の道場に来ていた、
思ったより広く、綺麗な道場だった、
道場の中では数十人の道場生らしき男達が稽古を行っていた、
それぞれ二組になって乱捕りのような事をしている、
皆、一様に真剣な表情でやっている、あまり大きな掛け声を出す者は無く、
道場内には板張りの床が軋む音と、胴衣の衣擦れの音だけが響いている、

長谷部はその中に師範らしき人物を見付けた、
一組のペアに付いて何かアドバイスをしている所のようだった、
道場生達が空手着に近い胴衣を着ている中、彼だけが袴の胴衣を着ていた、
肩ほどまで伸ばした髪に無精ひげを蓄え、鋭い眼光をしている、
いかにも無骨な武術家という印象の顔だった、
体格は中肉中背だったが、手がごつごつとして大きく、首もがっしりしてる、
(強そうだ・・・)
第一印象は素直にそう感じた、
名張は長谷部を従えてその人物に近寄り、声を掛けた、
「失礼」
「おう、来たか」
宗次は表情を緩めて名張を見やった、
真剣な表情の時は近寄りがたい雰囲気だったが、
そうすると意外に気さくな印象になる、
そして隣の長谷部に目をやった、
「彼が・・・」
「うむ、話の若造だ」
「・・・どうも」
長谷部は軽く会釈をし、宗次も返した、
宗次は長谷部の体をひとしきり品定めするように見た後、
その目をじっと見つめた、
長谷部は視線を逸らさず、その鋭い目を黙って見返した、
宗次は長谷部の目の中を覗き込んで何かを探すように見入った、
そうして3秒ほど経った後、
「なるほどな・・・」
と、口の中で小さく呟くと目を逸らした、
(・・・何がなるほどなんだろ?)
そう思った長谷部は、いつの間にか体が緊張していた事に気付き、
肩の力を抜いた、

詳しい事は道場生達の稽古が終わってから、ということになり、
長谷部は時間まで稽古を見学することにした、
練習は全員が同じ事をするということは殆ど無く、
一人一人が思い思いにやっているようだった、
ある者は相手を見つけて技を掛け合い、
ある者は黙々と筋力トレーニングに励み、
またある者は外に走りに出て行った、
宗次は道場生達の練習にアドバイスを与えて回り、質問に答えていた、
時には自ら道場生の相手をしていた、
長谷部はこの道場のやり方は自分に合っているように思った、
全員を均等に上げようとするのではなく、
個人に合わせて教えるものを変える、
それは教える相手が少ないから出来る事だ、
入門希望者は少なくないらしいが、この方針を崩さないため、
極力取る人数を絞っているという、

やがて、窓から差し込む日差しが茜色になった頃、
練習が終わり、道場生は帰っていった、
宗次、名張、長谷部は道場の中央に集まって座っていた、
宗次は先程と同じように鋭い目で長谷部の目を見つめながら口を開いた、
「悩んどるらしいな」
「はい?」
「名張から色々と話は聞いた・・・やりたい事が出来ない、許されない、と」
「・・・」
「一つ、何か見せてくれんか」
「何か?」
「技だよ、何でもいい、好きなやつでも得意なやつでも・・・
何か一つ、見て見たい」
長谷部は名張の方を見た、名張は黙って頷いた、
「分かりました」
長谷部は上着を脱いで立ち上がった、

長谷部は二人が見守る中、何度か手首や首を回し、体をほぐした、
そして深呼吸をした後、軽く左手を掲げ、半身に構えた、
どこにも余計な力の入っていない、自然な構えだった、
何度か軽くステップを踏んだ後、弾かれたように前に踏み込んだ、
スピードもさることながら異様に伸びる踏み込みだった、
向かい合った相手が予想するより更に深く入り込むような伸びだった、
その勢いを殺さないままミドルの軌道でしなるように足が伸びる、
その軌道が急激に上に向けて跳ね上がった、
急激に軌道が変わったにも関わらず、踏み込んだ勢いは殺されず、
体のバネと筋力が上乗せされ、足の先端は更に加速される、
びゅんっと音を立てて、丁度人の頭部の辺りの空間を、
足の先端がトップスピードで通過した、



「ほうっ」
宗次は感嘆の声を漏らした、