試合が終了してから大分時間も経ち、
会場からはそろそろ人気が無くなり始めていた。
廊下の人通りは少なく、
窓からは赤みがかった西日が差し込んでいる。

その会場の片隅の休憩所に長谷部はいた。
すでに私服に着替えていて、
スーパーセーフを外した時に癖がついたのか、
一房だけ跳ね上がった赤毛を、しきりに撫で付けながら、
携帯をかちかち操作している、
少しばかり地元から遠いため人数は少なかったが、
わざわざ応援に来てくれたクラスメイト達もおり、
彼等からのお祝いメールに返信している所だった。

「おや・・・まだ帰っていなかったのかね?」
長谷部が携帯から顔を上げると初老の男性が立っていた、
「あ・・・ども、」
立ち上がって挨拶しよとする長谷部を止めると
男性は隣に腰を下ろした。
柔和な顔には皺が刻まれ、
髪にも大分白いものが混じっているが、
背筋はしゃんと伸び、その動きに老いは感じられない。
名張栄一郎(なばり えいいちろう)、
当時小学生だった長谷部が
初めて格闘技に触れたときの師匠が彼だった。
長谷部は数多くの師に教えを受けて来たが、
実質この名張が最も長く彼の才能に触れてきた人物と言える。
実際に指導をする立場からは既に離れている今でも
長谷部の事を気に掛けており、
今回も遠くからわざわざ観戦しに来ていたのだ。
「まずは優勝おめでとう」
「・・・ありがとうございます」
「あまり嬉しそうでないが、何かあったかね?」
「いえべつに・・・」
そう言いながら長谷部は視線を外し、
携帯を手の中で弄び始める。
「最後の試合は少々ショッキングだったが、
特にルール違反を犯した訳でもない、
相手は大きな怪我をしたかね?」
「いえ、幸い・・・」
「なら、胸を張るといい」
「はぁ・・・」
やはり、すっきりしない返事だった、
名張は長谷部の方から何かを話し出すのをじっと待った。
長谷部はしばらく視線をさ迷わせていたが、
やがてぽつりと呟いた。
「本気を出すな、と言われました」
「・・・誰にかね?」
「この大会に出場させてもらったコーチにです・・・」
「ふむ・・・」
「はっきりとは言われませんでしたが、
統合するとそういうこと言われました」
長谷部はくしゃくしゃと赤毛を掻き回した、
「相手に怪我させちゃいけないから本気出すなって・・・」
二人の間に長い沈黙があった。
長い付き合いの中で名張は彼の気性をある程度理解していた。
彼は相手を痛めつける事に快楽を覚える手合いとは違う、
寧ろとある過去の経験から理不尽な暴力には強い嫌悪を抱いていた。
ただ、空手を教え始めた当初から心の内に何かが潜んでいた、
それは力をつけるにつれ彼の中で強大になり始め、
今や彼をその身の内から苛み始めている。
あの試合、恐らく彼は分かっていた、
最後の一撃は危険なものであると、
あの実力差ならばもっとうまく試合を運ぶことも出来たろう。
しかし彼の内のものが後押しした、
結果、凄惨な決着になったのだ。
自分でも承知していたその事実を改めて指摘され、
ショックを受けている、
同時にルールの範囲内ですら
自らの内なるものを解放できないという事実に
絶望感を抱いているのだ。

沈黙の中、名張は頭の中にとある人物を思い浮かべていた、
・・・はたして彼と長谷部を引き合わせる事は良い事だろうか。
僅かな逡巡の後、名張は口を開いた。
「辻里宗次(つじさと そうじ)と言う人物を知っているかね」
「・・・?はい、名前だけは」
辻里流という新しい流派の創始者だったと記憶している。
確か今注目を集めているプロ格闘家の戸田秀吾(とだ しゅうご)が
辻里流の出だったはずだ。
「私につてがあってね、一度彼と会ってみないかね?」
「・・・先生がそういうなら・・・」
しかし、先程の話題とどういう関係があるのだろう?
そう思う長谷部の表情を見て取ったのか名張は付け加えた。
「彼ならば・・・君を理解してくれるかもしれん・・・」
名張が彼に人を紹介するのは珍しい事ではない、
今まで彼の可能性を模索するために色々な人物に便宜を図ってくれた。
しかし自分を理解してくれる、とはどういう意味だろう、
「その人ならば君の・・・まあ、百聞は一見にしかずだ、
今度の週末都合は付くかね」
「大丈夫です」
「では、その日に道場に案内しよう」
「はい・・・」
名張はベンチから腰を上げ会場の出口に向かって歩き出したが、
ふと思い出したように振り返った、
「そろそろ何処ぞのジムか道場かに在籍して落ち着いてくれんかね?
最近うるさくてなぁ・・・まるで婿取り合戦だ」
「まだ色々試したいんすよ、適当にあしらってくれません?」
名張はにやりと笑みを浮かべた、
「もてる男は辛いもんだな?・・・色んな方面で」
「・・・どの方面ですか」
「まぁ羽目を外さん程度に楽しむといい」
「だから何の・・・」
「悩め、若者よ」
勝手に話を完結させるとにやにやしたままかえってしまった、
「そういう話はどっから仕入れてくるんだか・・・」
長谷部はため息をつき、ずるずるとベンチにだらしなく崩れた。
そしてようやく体が平常の状態に戻っていくのを感じた、
最近は試合が終わっても体の臨戦態勢が中々解けない、
体の芯に燻るものが残っているようなのだ、
なので試合後は暫くじっとして気を抜く時間を持つようにしていた。
不満かよ・・・?
考えてから頭を振り、
スポーツバッグを持って、ベンチから立ち上がる。
「あいてってって」
アドレナリンが切れたせいか左膝が今頃痛み出す、
そういえば決勝戦でいいのをもらった。
「先生についてってタクシー代出してもらやよかった・・・」
顔をしかめてびっこ引きながら歩く、
試合後の緊張感が抜けたその雰囲気は、
既に何処にでもいる学生のものに戻っていた。

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